D2版「TRAMP」Truth

 自分でもどうしてこんなにはまっているのかわからないぐらいに、TRAMPシリーズが面白くて、ついに2015年のNU版と呼ばれるTRAMPも購入してしまった。届く前に、2013年のD2版TRAMPについて感想を書いておこうと思う。

 D2版TRAMP。
 何度も何度も観た。多分これからも観る。観るほどに好きになる。
 小説を読んでいる時、自分の精神状態により、これまでとは違う解釈をしてしまえて、それまで理解できなかったことや腑に落ちなかったことが急にわかる瞬間があったりする。舞台もそうなんだなっていうのが楽しくて楽しくて。
 正直、最初に見たときは、登場人物の感情にまで到達することができなかった。気持ちが入ってこないというか。そもそも観劇という習慣がないし、生の演技ではなくてDVDというワンクッション置いた状態で見ているというのもあり、そこにあるはずの芝居ならではの熱量、目の前で行われている演目に圧倒されてこそのという部分がなかったというのもあるのだろう。舞台と映像の違いもわからないまま、映画を見るような気持ちで見ていた。でも、映画とは当然アプロ―チも違うわけで、その辺の噛み砕きができていなかったのもあり、あまりのめり込めなかった。
 その後、シリーズを見ていき、理解できなかったこと、腑に落ちなかったことに、「そういう理由があったのか」と判明するたびに、ということはあの時はこういう気持ちだったのかな? と想像しやすくなり、その想像をもって再度鑑賞すると初見では見えなかったものが見えてきて、そこからはもう早かった。沼った。

 以下、ネタバレあるのでご注意ください。
 LILIUM、SPECTER、グランギニョルマリーゴールドも観た上で書いてますので、その辺のネタバレも含みますのでご注意ください。

 



D2版TRAMP Turth


ソフィ・アンダーソンの孤独。
 ひとつ前の記事でも書いたが、私はSPECTERを見てから、ソフィという少年の育ってきた環境が幸福なものではないことに胸を打たれた。
 ダンピールは忌み嫌われる。だけど、現在登場しているダンピールには忌み嫌う人もいるが愛してくれる人も傍にいる。ウルにはダリ様とラファエロが、ガーベラにはアナベルが。当人たちはダンピールであることに苦しんではいるが、傍に誰もいないわけではなかった。でも、ソフィはどうだろうか? もちろん養護施設での日々については語られていない以上、彼にも傍に誰かいた可能性もあるわけだが、私は誰もいなかったのではないかなと思う。孤独に生きてきて、ダンピールであるから短命で、そういったものを一人きりで抱えてきた。彼が短命であることを受け入れているのも、強さというよりも、生きることへの絶望が根底にあり、生への執着がなかったからにすぎないのではないか? と。そう考えた時、彼の強さは悲しみであり、でもウルはその悲しみを強さと思って引かれたのだとしたら、なんとも切ない。ソフィを本当に理解してくれていたのかといわれたら、そうではないから。
 COCOONではウルのことが語られるようだから、そちらを見たらまた変わってくるものがあるのだろうけど、少なからず現段階では、相手を理解するという意味ではソフィ>ウルなんだよね、私は。ソフィのウルへの理解の方が大きい。
 昔、あるアーティストが「尊敬の気持ちは愛にはならない」というようなことをおっしゃっていたのだが、ウルの気持ちはまさにそれかなと。尊敬、憧れの気持ちは愛とは違う。羨ましいと思い、焦がれたけれど、それは同等の目線ではない。
 一方でソフィからウルへの眼差しは、ウルがダンピールだとわかったときに完全に同等の友人になったのだと思う。ソフィの孤独だった心にすっと入り込んでしまうほどの衝撃だったのではないかな。
 あと、死にたくないというウルが、ソフィには眩しかったのではないかとも思う。ソフィには生への執着、生きていたいと切望する気持ちが、わからない。生をよいものとはそもそも感じられていないから(そういう生い立ちだったから)。まぁ、ウルはイニシアチブの影響下にあり、自分の気持ちだけで生へ執着しているわけではないのだが、でもソフィはそんなこと知らないし、だからそんなにも「死にたくない」と思えること、即ち生きることに執着できることが不思議であり、眩しかったのではないかなと。そんなウルと同等の、友だちだと悟ったときのソフィの歓喜を思うと苦しくなる。ソフィの持っていた孤独が消えるわけでは全然ないのだけれど、ウルの存在が確かに心の拠り所になったのだ。
 そうであるのに、ウルは死んでしまう。
 そして、自身は不老不死に。
 これまでの孤独、不老不死となってからの孤独、その記憶の中でまるで幻のようにいたウルという友だち。執着しないはずがない。もう存在しない相手に、執着するしかないなんて……。ソフィ……。と、ここまで考えたときに、強烈にクラウスの孤独が立ち上ってくる。クラウスのアレンへの執着については何故アレンだったのかが、私にはまだ腑に落ちてはいないのだけれど、ただその執着の質はソフィのウルへのそれと同質のものだろう。アレンを失い100年、自分の心を立て直すためにクランを再建に尽力したクラウス。LILIUMでソフィが疑似クランを作ることとも重なる。ああ、本当に繰り返しなのだと。
 ただ、違う点と言えば容姿である。クラウスは大人、でもソフィは子どもなのだ。子どもの容姿のまま、時が止まる。子どもって舐められるよ。仕事だって簡単には見つからない。人間の町で素知らぬ顔をして暮らすなんて真似も容易くない。ソフィはどうやって暮らしを立てていたのだろうと思えば、別に生きていたくもないのに生きるための手段を講じなくてはならないとか……。それとも永遠の命を得たものは、食事をしなくてもいいのだろうか? そんなわけないよね。。。子どものまま時を止めることへのギルティ具合がたまらなく辛い。
 あと、クラウスにとってのソフィはアレンの代理であったという印象が私には強い。ソフィそのものに興味があるわけではない。アレンの意志は無視できなくても、ソフィの意志を無視してしまえる。
 結局のところ、本当にソフィを愛してくれている人はいない。誰も、いない。最初からずっとそうで、でも死という終わりがあるからこそ、ソフィは生きていられたのに、それさえ失い……あんまりだな。あんまりな生ではないか。
 少し優しくされただけでそんなにも執着しちゃうのかと圧倒されたマリーゴールドのリリーへの思い入れだけれど、ソフィのウルへの感情もそうなんだと思えばなおのこと痛ましい。でもそれは、マリーゴールドは何故そんなにリリーを? と思う気持ちにそりゃそうだよねという説得感を与えてくれる。
 孤独に、強烈に、どうしようもない負荷としての魂に触れられたような感触の愛を入れ込んでしまうと、狂ってしまう凶暴さって、なかなかに業が深い。
 彼の行く着く先がどこにあるのか。いつか安らかな死をと願ってやまない。


ウルの絶望。
 生きることは絶望か? とグランギニョルのダリ様の台詞だけれど、私はこの台詞がとても好きだ。彼の問いかけ、言い方が、反語のように、そんなことあってたまるか、と言ってほしそうで好きだ。
 さて、ではウルはダミアンのイニシアチブに負けたのだろうか。
 負けたのだと演出家の末満さんが言っていたとかいう文章をどこかで読んだような気もするが、私はそれを聞いて負けたのか……としょんぼりしたものだが。
 本当に、本当に、辛い生だったね。ウルの呪いはあんまりなものだった。でも、彼がソフィを殺さなかったというその一つの事実だけが光り輝いて私の胸に存在している。
 二重のイニシアチブ、ダンピールという宿命、彼は自分の生を、真っ白でまっさらなままの生を生きることを赤ん坊の頃に奪われてしまっている。苦悩し、絶望し、恐怖して、生きてきた。そんな中で出会ったソフィという存在。彼もまたダンピールの宿命に身を置きながら強く生きている。その姿はウルにとって憧れであり、希望であったに違いない。
 体調が目に見えて悪くなる後半から、彼の狂いは加速していく。繭期の影響もあるのだろう。壊れていくウルの、そのアンバランスな精神で、ソフィを殺そうとして殺せない、それはウルが愛を知っていたからだ。ソフィを愛していたからではなく、ウルが愛されていたからという意味での愛だ。彼は自分のために誰かを犠牲にすることをギリギリで踏ん張る。その気高さが苦しい。
 私はやはりどうしても絶望しながら死んだとは思えない。彼は途中で道を踏み外しそうになったが、止まり、命を終えたのだ。幸福な最後とは言い難いが、ソフィを手にかけないでいたことに対して、安堵して逝ったのだと思いたい。
 ただ、これもまたひとつ前の記事で書いたが私は当該シリーズで一番愛されている人物としてウルだと思うのだ。だから、彼の人生は苦しくはあるが寂しいとか悲しいとかいう感想は今のところないので、あまり語ることがない。他の登場人物があんまりすぎるので、きちんと死ぬことができて、生を全うした彼はこの世界観の中では幸福とさえいえるのかもとまで思う。当人は死にたくなかったんだけどもさ。


ラファエロについて
 ダリ様に失望したと言われるところが悲しかった。TRAMPのみ見ていた時はウルはダリ様の子どもだと信じていたので、お前の不貞が原因で生まれた子の尻拭いをさせられているのに、なんという言いよう、みたいなぐつぐつした気持ち。ラファエロ何も悪くないだろー! と思わずにはいられない。
 グランギニョル見てからは……え、ラファエロってウルの守護者でありながら真実知らないの、え……やっぱりダリ様に別のぐつぐつした気持ちを抱いてしまったが。でもまだ微レ存で、ラファエロがウルのことを語る場面は、観客に向けての説明で、本当に大事な秘密は口にしてなかったというメタ的演出(というの?)、フェイク?、である可能性もある、のか。そういうことが演劇界ではあるのかないのかわからないが、その辺はきっとCOCOOONですっきりするの、だろう? 期待してます。
 私はシリーズにおいて、「我は守護者なり」というフレーズがかなり好きなのですがはじまりのラファエロのこれを元祖として、劇中で言われるたびに彼を思うのです。
 ダンピールの、しかも父の不貞で生まれた弟を、哀れな弟と心を寄せる彼の精神を思うと、フリーダ様の気高さが垣間見れます。そうだ。あの高潔なフリーダ様の血を引いている。彼が気高いのもうなずける。ソフィを殺害しようとするが←
 グランギニョル見た後では、ラファエロが黒髪、ウルが茶髪なのが、ああ……となる。たまたまだったというのが真実のような気もするが、結果として伏線になっていたというのは割とあることなので、人知を超えた力が働いた伏線だと思っている。あとアンジェリコの金髪の皮肉。辛い……。


アンジェリコについて
 アンジェリコがあんな風になってしまったのは、単純に元から性格がねじくれていたからか、ゲルハルトの教育のせいか。教育も、きちんとマリアの子どもとして愛情を注ぎ家督を継がせるためにノブリスオブリーュを教えたのに、何故か選民意識の方に加担して失敗したのか(失敗だと思ってしまうぐらい酷いことしたもんねー)、愛するマリアを死に追いやったとして(原因つくったのがゲルハルト自身だったにせよ)距離を置いて接してる、或いはゲルハルトの父のように厳格すぎる態度で愛情を示さなかったからひねくれたのか、どれなんだろう。
 この辺もCOCOONではっきりするのかな? 楽しみである。


 物語全体としては、構想はあったのかもしれないが、シリーズとして展開されるかわからない状態ながらの公開だったはず。でも、この後でLILIUM、SPECTERときちんとつながるのがすごいなと思う。
 SPECTERを見た後で、拍手喝さいを送りたいのはやはりガ・バンリである。ソフィを見つめる眼差しに叔父の感情を汲み取れてしまうのすごい。きっと、おそらく、演じている彼はその事実を知らないはずなのだが、あの妙になれなれしい感じとかが、わーっとなる。あと、ずいぶんあっさり死ぬなっていうのは思ったことだったので、預言ー!!! となりました。
 けれども一番、ひえぇとなるのは、ガ・バンリとティーチャーグスタフ。ブロマガ掲載の「ドナテルロ回顧録」とガ・バンリは実は臥萬里とリリーの子ではないかといことを末満さんがほのめかしたことにより、なんという因縁の二人と、ぞっとした。グスタフ、ギルティ。でもグスタフの方がガ・バンリを嫌悪しているのが、真実を知らないということは恐ろしいなと思いました。お、お前、ガ・バンリにそんなこと言える立場かよ!!!ってなる。いや、真実を知ってもグスタフはあんな感じな気もするけど(笑
 ピエトロの、アレンが撃たれたときにクラウスを頼ってしまって慟哭するシーンも好きです。彼はクラウスを見張るためにきて、クラウスの心を惑わせる事態を避けるべきなのに、アレンのピンチにクラウスに助けを求める。つまりあれってアレンに永遠の命を与えてくれってこと? そこまではいきすぎなのかもだけど、それくらいの気持ちで助けてほしいって迫ったのだよね……アレンとピエトロこそ純粋な意味での対等なる親友ではないのかな。ピエトロは職務があるから真実を隠していることに後ろめたさもあったのだろうけれど、アレンはそんなこと関係ないよって感じでいてくれそうだし。
 TRAMPに出てくる人物たちは、みんな少しずつ歪んでいるというか、心を開いてはいない。孤独で寂しい。でも自分勝手すぎるというのでもないバランスがよい。自分のためだけに好き勝手した結果ではなくて、誰かを思う気持ちがねじれて歪になりその結果の絶望なのだ。
 すれ違ってはいない。ただ、矢印がみんなどこか一方通行。ここまで一方通行な関係性ってある? というぐらい一方通行なのが苦しい。こういう関係性って、箱の中で、2時間ほどの密閉された時間に詰め込んで見せる演劇と相性が抜群で、ぎゅっと濃くて、どこか共通して歪んだ人物たちの、普通ならそんな誰もかれもが因縁に縛られるなんておかしいとなるところを、とてつもない濃密なものとして納得させてくれる。私はとても好きなのである。

 書くほどにとっちらかってしまうけれど、ひとまずここまで。